時代 世間 個人 ⑴

 戦後の混乱がまだ収まらぬ1949年、私は貧しい引揚者の子に生まれた所謂ベビーブーマー、かつて「戦争を知らない子供達」と呼ばれた世代である。

 だからこの国が軍国主義に傾き第二次世界大戦に突入して敗れるまでの戦前・戦中の時代の体験はない。時代の波に呑み込まれた父母達が、あっぷあっぷしながら必死で命をつないだその時期について、雰囲気さえも知らない。

 母親は山口県に生まれたが早くに父を亡くし女学校時代には母とも死別。七人いた兄弟姉妹のうち三人は既に家から出て暮らしていたが、四人はバラバラに親戚などに身を寄せた。母親は既に嫁いでいた姉に引き取られて学校だけは卒業し、その後奉公に出た。やがて伯父を頼って朝鮮に渡り、百貨店勤めをするうちに結婚、三人の子をもうけ平穏な暮らしをしていた。だが夫が病死して間もなく敗戦を迎える。子供三人を連れて着の身着のまま引き揚げて来たものの、帰国しても故郷も実家もない。関西から東北まで各地に散らばっていた兄弟や親類を辿って転々とし、秋田にあった兄嫁の実家で父親を紹介された。

 父親はと云えば秋田生まれだったがこれもまた早くから親に死なれ、青森の姉の嫁ぎ先で漆器職人に弟子入りし、修業の後漆工として自立して家庭を持った。が、子供三人を抱えての生活は苦しく、やがて王道楽土を夢見て一家で満州へ移住する。開拓団で開墾作業に勤しむ間に子供は五人に増え、戦局の悪化で父親は軍に召集され入隊、その間に妻は子供達を残して病死した。ほどなく敗戦を迎え中学生の長男は幼な子を含む兄弟四人を連れて引き揚げの行列に加わる。子供だけの引き揚げは悪戦苦闘で、長旅の途中一人が衰弱死し、日本に辿り着いた時は全部で四人になっていた。帰国後親戚の間を転々とするうちに更に一人が死に、生き延びた兄弟は三人だけになった。三人は青森の母方の実家に預けられて父親の帰還を待つ。やがてソ連から戻って来た父親は、幼い末娘をその実家に預け、上の二人だけを引き取って漆工仲間だった知り合いを訪ね歩き、何とか旧知の漆器店に住込みで働かせて貰えることになった。

 この時期父親と母親は東北と関西に住んでいたのだがそれぞれの知人を介して見合いをする。母親にとっては土着の言葉も習慣も知らずほとんど知り合いもいない全くの異郷の地に嫁ぐ訳だが、生活のことを考えると選択の余地はなかった。二人はそれぞれ自分の子供を一人ずつ親戚に養子に出し計四人の連れ子と共に人生の再スタートをきることになった。

 父親は母親の手伝いを得て順調に漆器職人の仕事に精を出したが、出来高払いの収入は一家を養うには足りず、母親は父親を手伝いながら行商や露店などの小商いもした。トイレ・流し共用の間借り生活は八畳一間で隣との仕切りは襖一枚、風呂は銭湯通い、という貧乏暮らしである。ほどなく、父方の長男が漆工の仕事に見切りをつけ、大阪の洋服店に住込みの働き口を見つけて家を離れた。

 何度かの引っ越しを繰り返し綱渡りのような貧乏暮らしだったが、少しずつ落ち着き始め、やがて子が生まれた…それが私である。そのうちに父方の長女も学校を卒業し、床屋の住込みで働き始めた。私が六歳になる頃には、父親の知り合いだった漆器製造所の親方が、工場を拡張するため大きな旧い二階建ての商家を買い、その一画を貸してくれた。寝起きする場所とは別に初めてまるまる一部屋を作業部屋に当てることができた。水道は無かったが広い三和土の隅に流し台を置き、共同水栓から水を汲んできて台所替わりに使った。そのうち水道、都市ガス、とインフラが整備されて、暮らしは少しずつ安定に向かい始めた。無論、電話や車はずっと後になるまで買うことはできなかった。

 戦後十年ぐらいは物不足が続き隣近所みな粗末な暮らしをしていたので我が家の貧乏はあまり目立たなかった。私は物心がつく頃になっても、自分の家が貧乏なのだということに一向に気付かずに過ごした。野球道具や自転車などを持っていないのも自分だけではないし、そもそも道路や空き地で遊ぶのにおもちゃは必要がなかった。道路、神社、畑、田圃、用水路、水門、土手…子供が集まりさえすれば周りの空間全てが遊び場だった。

 やがて高度成長期に差し掛かるとテレビが普及し始め、遊び場にしていた周囲の田圃や畑もあちこちが潰されて家や会社が建ち始めた。電気店の店先には出始めのテレビを見るために近くの子供達が群がった。直にテレビが普及し始め、電気店の前に立つ子供達の数はどんどん減っていき、最後は私と弟だけになった。電気店が店頭デモを止め、一方で学校での子供達の話題は前日のテレビ番組の話が多くなった。テレビを見られない私は友達の会話についていけなくなった。このとき初めて自分の家が貧乏なのだということを自覚した。

 そのうちすぐ近くの田圃が石炭の山に変わり傍らに燃料販売店の白い大きな建物ができた。石炭置き場にはトラックが何台も出入りし、数人の作業員が真っ黒になって一日中石炭の積み下ろしをしていた。我が家の向かいに住むおばさんがその燃料屋の賄い婦に雇われたらしく、夕方になると自分の子供を連れてその会社に出かけた。私と弟は誘われるままに向かいの子供について行った。おばさんの仕事が終わるのを待つ間、子供達は事務所に続く母屋のリビングでテレビを見て過ごした。翌日、私は弟と二人だけでその燃料屋に出かけた。燃料屋の奥さんはおばさんが同行していなくてもテレビを見せてくれた。味を占めた私は、見たい番組に合わせて毎日燃料屋を訪ねるようになった。おかげで学校での友達との会話も大いに盛り上がることが出来た。

 この燃料屋通いは我が家がテレビを買うまで、数年続いたがその間断られた記憶が全くない。夕飯時でも厚かましく部屋の隅に座り込みテレビを見ていたし、日曜日は子供向けドラマがあったので朝から行った。燃料屋は夫婦と成人した息子の三人家族だったが、夕餉の晩酌時や休日のリラックスタイムに近所の子供二人がまぎれ込んでいるのである。歓迎された訳ではないものの、時々お菓子を貰ったり風呂にまで勧められて入ったりもしたのである。

 今にして思うと何とも寛容な人達であったが当時はその善意に全く気付かなかった。