時代 世間 個人 ⑷

 青年期の私の歴史感覚は、—— 明治の富国強兵策の延長で抬頭した軍部が日本をファシズムに引きずり込み、世界と日本国民に塗炭の苦しみを与えたが敗戦によって民主国家に生まれ変わった。悪いのは軍部であり多くの国民は戦争被害者で、この国は新たに制定された平和憲法により再び軍国主義に陥るはずがない ――といった程度の稚拙なものであった。

 この歳になって、時代や世間の現象とは、そんな勧善懲悪ドラマのように単純な訳がないと思い至った。考えてみると「その時その場所での個別の関係性の総体」の外側に立って、時代や世間の出来事を時系列で関連付け、因果関係やら背景やらをあれこれ解釈するのは、将棋の感想戦のようなものだ。客観的で合理的に見えるが、結局は結果から正誤善悪を評価する後出しジャンケンに過ぎない。

 将棋では個別の駒の属性もルールも確固不動で、指し手の良悪の評価は明瞭だし、その連鎖や因果関係を正確に検証しながら反芻する事は修業になる。

しかし、時代や世間の現象は人間同士の関係や相互作用から立ち上がる複雑な現象で、悪役然としたファシスト達の正誤善悪や責任をあげつらうだけでは単純化のし過ぎだと思う。

 世界恐慌に喘ぐ当時の国民にとって他国への武力侵攻は軍部の主張するように正当な事だったのか、軍部が悪いのだとすれば何故それを多くの日本国民が受け入れたのか、国家防衛や安全保障という考え方が正しいのだとすれば第二次世界大戦の宣戦詔書だって正当なことになる、大戦に勝っていれば武力侵攻は正当な行動だったのだろうか、個人が国家の行ったことに責任を負うことはないのだろうか、そもそも個人にとって国家は本当に必要なのだろうか、大戦で唯一本土上陸に晒され多大な犠牲を出した上に現状アメリカ軍基地に使われている沖縄にとって、日本国家は属する価値があるのか…

 考え出すと等価報復主義の正当性やら儒教流の忠孝論やら欧米流の利得戦略論にまで思考が拡散し、そもそもヒトはなぜ争うのかにまで行きついてしまう。一介の市民のぼんくら頭ではとても整理できないが、単純化できない事なのだということは解る。

 もっとも戦後日本では、その戦争責任さえ、国際責任は連合国ロンドン憲章に基づく東京裁判で処理されたものの、戦犯を含む国家リーダー達の国民に対する責任は曖昧なまま放置され、中には犠牲になった戦死者と共に神社に祀られている者さえいる。責任が曖昧なので被害者と加害者もまぜこぜになり戦没者としてひとまとめに鎮魂されてしまう、おまけに政府の大臣までが参拝すれば被侵略国から「ほんとに悪いことしたと思ってんの?」と疑問視されても仕方がない。本当は悪くないのに戦勝国による不当な裁判で戦犯にされたのだ、と云う人もいる。つまり懲りていない国民も少なからず存在するのだ。人それぞれなので個人がどのように考えようが全く自由だ。が、国家としてそう云うのであればまずロンドン憲章そのものを認めないことを表明すべきだと思う。

 ともかく、この国が戦争を繰り返さないようにするためには、戦争についての難解で抽象的で個別的で本質的な議論が、もっともっと必要なのだと思う。何となく前提にしてしまっている事がこの時代の心理的なバイアスによるものだとしたら、私たちは危うすぎて、先の戦争から何も教訓を得ていないことになる。大体個人というのが時代や世間に対して脆弱すぎるではないか。